目にはみえないもの

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終末期

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○70代の男性。元デザイナー。
油絵を描くのが趣味。趣味に浸りたいとのことでアトリエ付きの家をたてて、転居。
子どもが二人。

黄疸、灰白色便、腹部膨満。精査目的で入院。エコーで膵頭部腫瘤疑いとなった。
手術、減黄目的のステント留置は希望されず。
退院後に訪問診療開始。

苦痛がとれないならば、眠らせて欲しいという希望が聞かれた。
家族に判断させるのはかわいそうだから、自分がわかるうちに眠らせて欲しい、という意見もあった。
家族に相談したところ、皆総意で理解、納得しているが、お別れをしてからにして欲しいと。

ただ、医師として、本当にそれでいいのか、という問いが消せなかった。

辛さはすべて取り除いたらいいのか。
例えば、症状は取り除くもの。
しかし、「意味や価値」に関するつらさを取り除くのは意味がない。苦痛の種類としてはスピリチュアルペインが中心だろうと考えた。
では、スピリチュアルペインに対して鎮静をかけるということなのか。

倫理的な検討が必要と考えた。
行為自体が道徳的で、好ましい効果のみが意図されているのかどうか。
相応性原則に従って検討してみても、本当に治療抵抗性なのか、予後がそこまで短いとはいえない、など悩む内容があった。
研究でも精神的苦痛に対して鎮静が行われるケースは1-2%程度に留まっていた。

上記踏まえて、グループ診療で、本当に出来ることはないのか、深くディスカッションを行った。
訪問看護や訪問リハビリに加え、それまで行っていたハープの演奏や、チャプレンの訪問もスピリチュアルペインに対して行ってきたことだったのかもしれない。

いよいよ終末期になりせん妄が出現。せん妄に対応すべくセレネースを投与したところ、翌朝亡くなるという結果となった。
一人の子どもの到着は間に合わなかったが、
エンゼルケアの場で、妻から、「嫌がっていたオムツも2日くらい、トイレにいけなかったのもわずかだった。そういう時間が短くてよかった」という気持ちが語られた。

ディスカッション
スピリチュアルペインに対する緩和的鎮静は、今回の参加者で経験なし。
本人が死に方を考えた理由を尋ねたり、なぜそう思うのかを考えたりすることが大事なのでは。
緩和的鎮静ができるべきだったか、という視点ではなく、本人にどのように寄り添えたのか、という振り返りをしたらいいかもしれない。
マインドフルネスの実践「ルーピング」「ディッピング」を行ってみるとよいのか。
緩和的鎮静をしなかったが、鎮静したら達成できたことがあるのか、鎮静しなくても達成できたことがあるのではないか。
かっこよく死にたい、侍のように逝きたい、というのはかなえられたのではないか。
結果的に緩和的鎮静は行わなかったが、時期を逸してできなかったのか、やらないという選択をしたのか。
やらないという決断をして、そうなったわけではない、というのがもやもやポイントだったのかもしれない。

岡田院長の総括
スピリチュアルペインがあるかどうかの評価はどのように行ったのか。
スピリチュアルな辛さも定量化すると比較しやすい可能性もある。
患者の訴えが、すべて解決してほしいわけではない。
表出する場があるだけで救われるかもしれない。
方法があれば解決を望むのか、そういうわけでもないのか。
本人家族が望むなら、試すという方法もある。
生まれる、年を取る、病を患う、死ぬが仏教的な4つの苦しみ。

参考文献

終末期の苦痛がなくならない時,何が選択できるのか?: 苦痛緩和のための鎮静〔セデーション〕 , 森田 達也 (著) , 医学書院
「いのちとは、使える時間があるということ」(日野原重明) 一人称の死、二人称の死、三人称の死
薬の力で、最期は苦しまず、眠るように逝きたい:
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180303-00010000-bfj-soci

このサイトの監修者

亀田ファミリークリニック館山
院長 岡田 唯男

【専門分野】
家庭医療学、公衆衛生学、指導医養成、マタニティケア、慢性疾患、健康増進、プライマリケア・スポーツ医学