自転車を追い越すとき1

 買い物をしようと久しぶりに歩行者になって街を歩く。チリチリと自転車のベルを鳴らし、歩道の人混みを自転車がすり抜けて行く。そこどけそこどけ、お馬が通る。さて、人の心理は不思議なものである。何が人の上下を決定するのであろうか。歩行者より自転車に優先権が有るというのは誰が決めたことか。そもそも歩道上の自転車走行は最近認められたことである。これは自動車世界と道路整備の劣悪な我が超大国の道路状況から、弱者である自転車が路上から追い出された結果である。その弱者が侵入者でありながら今度は歩行者を見下す。

 自動車の世界は、自動車の世界で弱者強者があるように見える。国産のファミリーカーの前に左ハンドルのロングボディーのベンツが無理やり割り込んでくる。制限速度のないアウトバーンならいざ知らず、早い車、高価な外国車に優先権はないはずである。しかし、運転者の心理状況にこうした「地位の感覚」が生じるのも確かである。ハンドルを握ったとたんに人格の変貌することは、ベルトから下に人格の無い如く珍しいことではない。この様な「地位の感覚」が如何なる生物学的必然性から生じるのか、御存知の方はいないだろうか。群を形成する動物は強者弱者の順位が生存のための掟となる。オオカミであったときには階層的集団で群をなしていた犬が、ペットとして家に連れてこられたとたんに、その家では誰が主人であるかを一瞬にして見抜く。そして家族の中で自分の階層を確保する。ところがサルはボスには絶対服従、ボス以外の言うことは聞かない。多くは奥方になつく。ヒトがsuperior あるいは inferiorと言った感覚に支配されるのは、こうした生物学的な社会性に起因するのかしら。かつて父親は理由もなく偉かった。この伝で学校の先生も理由もなく偉かった。しかし母親が隣の父親の収入より少ないことに文句を言い、父親は子供の友達に成り下がってその「理由無き権威」は失墜した。父親が偉くないのだから学校の先生が偉いわけはない。家族性に支えられてきた従来型の社会秩序の崩壊はアメリカンドリームの結末である。経済力の強弱が人間の強弱に摺り変わった。

 際限のない価格競争や速度競争から落ちこぼれた若者が、座席位置が高く経済的にでは無く、物理的に他の運転者を見下ろしながら運転出来る4WDタイプの車に乗り換える。

 本題に入ろう。さて、自動車を運転しているときに狭い路地で自転車を追い越すときの心構えを一つ。決して警笛を鳴らして自転車の運転者を振り返らせてはいけない。これは、自動車の運転者が自転車より偉いと言う感覚に陥ることに意義を申し立てているのではない。自動車世界はいつ何時、自分が加害者になってしまうか分からない世界である。加害者にならないための心構えの一つがこれである。

 Tonic Neck Reflexと呼ばれる反射がある。著者が医学生であったときの教科書には、野球の選手が、ボールを取るときの姿が写真として出ていた。物を掴もうとするとき、首は物の飛んでくる方向を見る。手は物の来る方向に伸びる。足も伸びる。この時、反対側の手足は縮む。実は、この様な捕球動作では、大脳は球を捕ろうと「考える」だけである。眼が球を追い、首が球の方向に向けられたとたんに、脊髄反射が動員される。

 重大な脳の病気や外傷で、既に脳死状態であると宣告された患者さんの首を動かしたとたんに、手足が伸展・あるいは屈曲する動きが起こることがある。家族は、まだ患者さんに「意志」があると考える。大脳が生きていると考える。これは手足を動かす命令はすべて大脳から発せられると言う考えが一般的であるから、仕方がない。しかし手足の動きは脊髄に組み込まれたプログラムで制御されていることが多い。これを脊髄反射と呼ぶ。大脳はこの脊髄のプログラムを呼び出すのである。

※このコンテンツは、当科顧問橘滋國先生の著書である「体の反射のふしぎ学ー足がもつれないのはなぜ?」(講談社 ブルーバックス 1994年)を元に改変・編集したものです。

このサイトの監修者

亀田総合病院
脊椎脊髄外科部長 久保田 基夫

【専門分野】
脊椎脊髄疾患、末梢神経疾患の外科治療