オンディーヌの呪い

 眠り込むと、呼吸が止まってしまう、とても危険な病気がある。これを、「オンディーヌの呪い」病という。浮気な恋人に恋しさ余って憎さ百倍、オンディーヌは魔法をかけた。眠ると息が止まって死んでしまう。魔法をかけられた恋人がどうしてそのことを知ったのかは不明であるが、一生懸命眠らないように努力する。が、遂に睡魔に負けて眠り込み、一命を落としてしまう。

 余談ながら、今では医学生に常識なっている病気であるからさぞかし立派な論文かと思っていたが、何と800語にも満たない学会発表の要旨抄録であったのには驚いた。優れた論文は決して使用した紙の重さでは計れないものである。

 「オンディーヌの呪い」には色々な病態がある。第一は肥満である。肥満で喉の奥が細くなり、眠り込むとどうしても舌の付け根(舌根)がのどの方へ落ちる。閉塞性呼吸傷害である。次には延髄での血中の炭酸ガス濃度に対する反応性が低下している場合である。お休みしてしまうのである。

 呼吸運動も立派な反射経路を形成している。この反射経路はかなり長いものである。呼吸のリズム形成を担っている中枢は脳幹でももっと上にあるが、最終出力は延髄から司令が発せられる。このリズムには末梢からの情報が重要で、今大きく息をすった状態か吐いた状態かを中枢が知らないと息を吸い続けた状態となってしまう。第三がこの末梢からの情報の経路に傷害がある場合で、前の二つが息を吸い始める状態で止まっているのに対し、吸い終わった状態で止まってしまう。これは極めて希である。

 ヒトはどうして眠らなければならないのだろうか。睡眠をテーマにしている研究者は沢山おられるが、著者は不勉強で解答を持たない。多分永遠の命題ではないかと思われる。しかし、ヒトが眠って大脳皮質の機能の大半を停止した状態でも、生命維持のために働き続けなければならない神経機構がこのように存在する。呼吸機能はヒトが眠ってしまっても停止するわけに行かない代表選手であろう。不眠不休の旗頭、わが日本国労働者の如くである。

 サッカーの選手が脳振盪を起こしそのままゲームを続けたが、後で覚えていないのはこれとは異なる。これは記憶への取込みがされないだけで、反射的に動いているわけではない。大脳皮質は不完全ながら働いている。ヨットレースで最も危険な事故は脳震盪と落水の組み合わせである。脳震盪は大脳の機能停止であるが、この間も脳幹は働いている。呼吸中枢はその機能を停止しない。したがって肺に海水を吸い込み窒息する。われらと同じ肺呼吸のイルカが大脳の左右半分ずつで眠るのはこのためらしい。

 スッポンは冬の間半年も水中でも冬眠するが、ドジョウの様に腸内呼吸やエラに似た構造が喉にあり肺を使わず呼吸しているという。

※このコンテンツは、当科顧問橘滋國先生の著書である「体の反射のふしぎ学ー足がもつれないのはなぜ?」(講談社 ブルーバックス 1994年)を元に改変・編集したものです。

このサイトの監修者

亀田総合病院
脊椎脊髄外科部長 久保田 基夫

【専門分野】
脊椎脊髄疾患、末梢神経疾患の外科治療