耳をそばだてる1

 源氏物語では、雨に降り込められた男達が「雨夜の品定め」、女性論を語る。なぜ雨の夜でなければならないのか。「雨夜の品定め」は理想論を語りながら実は追憶、空想、観念の世界を展開する。お日様の下で女性論を語るには厚顔無恥の男と言えども恥らいがある。無音の闇夜には恐怖がある。しかし満月の夜でもなければ、花火大会の夜でもない。鍵は「雨」にありそうである。追憶、空想、観念を語るとき、語り手は自らの大脳辺縁系の引出しを開けるのに忙しい。聞き手もまたしかり。これはディスカッションでは無い。なぜ雨が必要なのか。雨は男達をそれぞれの妻のもとへ出かけさせないためのバリヤーとして必要なわけではなさそうである。「雨」は彼らの大脳の中にあって、不必要な外部入力とこれまた不必要な内部出力にバリヤーをかける。太陽の光や月の光、夜空の花火が不適切である理由は、これらは指向性を持っていることにある。指向性を持った動的対象に対しては、それが視覚情報であっても聴覚情報であっても反射的に意識の集中が喚起される。その対象物が記憶の引出しのどれとマッチするかが大脳活動の中心となる。追憶、空想、概念の構築は中断する。小糠雨は音もなく四方に落ちてくる。そぼ降る雨の音は指向性を持ってはいない。大脳は指向性のない連続音を無視する。

 子供の頃、GHQに禁止されたはずの「お山の杉の子」のSP盤を蓄音機で聞かされた。勿論モノラルである。ステレオレコードを聞かされたときの興奮は忘れられない。理論的にも、レコード溝の左右の壁を左右の音源にする理屈は素直に理解できた。ステレオのFM放送や、最近ではAM放送までがステレオになっているが、電波は目に見えないだけに、その左右分離については理解し切れない。理屈はよく分からなくても目の前に楽器奏者がならぶ。ところがヘッドフォンやイヤフォンで聞いたとたんに奏者は頭の中に整列する。右からくる列車に轢かれそうになる。

 音響工学を専攻する兄に頼まれて、ヒトの耳の石膏像を作ったことがある。左右のスピーカーから出る音をこの人工耳介を使って左右の耳の孔にマイクを置いて録音したものをヘッドフォンで聞くと、ちゃんと奏者が前面に整列するそうである。どうやら、この立体感は左右の耳への到達時間の差が作り出す干渉波だけで再構成されるのでは無いらしい。耳介が脳への指向性マイクロフォンの一部になっているらしい。

※このコンテンツは、当科顧問橘滋國先生の著書である「体の反射のふしぎ学ー足がもつれないのはなぜ?」(講談社 ブルーバックス 1994年)を元に改変・編集したものです。

このサイトの監修者

亀田総合病院
脊椎脊髄外科部長 久保田 基夫

【専門分野】
脊椎脊髄疾患、末梢神経疾患の外科治療