ワニの涙の物語1

 日本書記に出てくるワニとは、サメのことでこの話とは異るから、ここでは、河や河口に棲むワニ(クロッコダイル・アリゲーター)のことである。ワニは、ものを食べるときに涙を流すと言う。あたかも、自分の犠牲者の事を嘆き悲しんでいるかのように見える。

 人の病気で、「ワニの涙現象」と言うものがある。これは、重症の顔面神経麻痺にかかった後、数カ月後に麻痺は何とか回復しても、妙に涙っぽく、特に食べ物を口に入れ、咀嚼すると涙が流れてしまう状態を言う。

 顔面神経は、その名の通り、顔面筋を支配している神経で、その神経核(運動神経の集団)は、脳幹の内でも、橋下部にある。顔面神経は、橋から出ていて、内耳孔に聴神経・前庭神経と一緒に入る。その後は、狭い骨のトンネル内を走るため、神経にちょっとしたむくみが起こると簡単に麻痺してしまう。

 この顔面神経は、顔面の筋肉を支配しているだけではなく、涙腺・唾液腺も支配している。また、こうした遠心性の神経のみならず、求心性の神経として、味覚(舌の前2/3)を伝える働きもしている。

 顔面神経に限らず、どんな神経でも、高度な障害を受けると、そこから末梢までは、一度変性してしまう。回復には、神経線維の再生が必要である。障害が軽い場合には、再生神経線維は変性前の道をたどり、目的とする筋肉に到達できる。しかし、障害が高度な場合には、再生神経線維は、出鱈目に、とにかく末梢に向かって伸びる。ここで道を間違えてしまう。本来唾液腺に行くべき神経線維が涙腺に到達するとどうなるか、これが、「ワニの涙現象」の本質である。

 涙腺の働きは、何も感情の高ぶり、悲しさを表現することだけにあるのではない。角膜の保護が第一目的である。なぜ、角膜を涙で保護しなければならないのだろうか? ヒトが魚だったときには、マブタは必要なかった。陸上生物は、角膜は水中生活者のまま地上に上がってしまった。ビーバーは水中で、アナグマは穴を掘るときに透明な二枚目のマブタをゴーグルの様に使うらしい。蛇にはマブタは無く、透明なウロコで被われているらしい。このように、透明なマブタを持つ動物も居るらしいが、我々のマブタが透明だと、昼寝には困ってしまうだろう。涙には僅かながら糖分が含まれている。角膜は、血管のない組織で、酸素は直接外気から吸収する。最近流行のO2コンタクトレンズがそれである。栄養は、涙から得ているのだろうか。

 あるコメディアンが「ミミクソは辛いのに、ハナクソは甘いのはどうしてですか」という視聴者からの葉書についての回答をしていた。残念ながら、すぐに「ウンコ」と言うもっと下ネタにおきかえてしまったが・・ハナミズには糖は含まれていない。ハナクソに大量の涙が加われば甘いかも知れない。医学的に、このことは重要で、頭蓋底骨折で、脳脊髄液が耳や、鼻から漏れてくることがある。この時、脳脊髄液なのか、単なる鼻水なのかは、糖が含まれるかどうかで診断する。ついでながら、ミミクソは汗腺からの塩分で辛いかも知れない。因みに著者は試したことはない。

 しかし、ワニの涙は辛いのである。ワニが大粒の涙を流すのは、偽善からではない。海鳥や、ワニ、カメは、体内のナトリウムを体外に排出するのに塩類線と言う装置を使っている、これが、カメやワニでは目尻に開口している。陸にいるときも、この腺は働き続けるので、大粒の涙がこぼれ落ちると言うわけである。

 悲しいときの涙が、どういう必要があって流れるのか、著者はその生物学的意義について預かり知らない。

※このコンテンツは、当科顧問橘滋國先生の著書である「体の反射のふしぎ学ー足がもつれないのはなぜ?」(講談社 ブルーバックス 1994年)を元に改変・編集したものです。

このサイトの監修者

亀田総合病院
脊椎脊髄外科部長 久保田 基夫

【専門分野】
脊椎脊髄疾患、末梢神経疾患の外科治療