飛魚を見たかー見ることとはー3

 船に乗っていると飛魚が水面から飛び出して滑空する姿をしばしば見る。しかし、この飛魚の発見にも、個人差があり、見つけられない人がいる。この水面には飛魚が飛ぶかも知れない、と言う期待を、意識のなかに持つか否かがその決め手のように思われる。実際に飛魚の飛ぶ姿を描けと言われても難しい。あれは本当に飛魚だったのだろうか。ダボハゼが三角定規に乗って波乗りしていたのでは無いのか。

 あそこに浮いている白いものは船であろうか。どうして船であるとわかるのか。自分の記憶の引き出しから、船と言う画像を引き出して、それと、今見ているものとの一致点を探り出して、判断が許される程度に一致した場合に「船である」と考える。ところが、記憶のなかに仕舞ってある船の画像は、多くの場合、正面、後面、側面の画像であって、斜め前、斜め後ろの画像は無いらしい。試みに、船の絵を描いてみると、斜め後ろからのデッサンはとても難しいことである。

 ポートレートとして人の心を捉える撮影は、指名手配の写真でない限り、七三に構えた斜めのものがよいと言われている。これは、人の記憶の正面・側面の画像の両方をなんとなく満足させてくれるから一番落ち着くのではないかと思う。ピカソの初期の頃のデッサンを、ある展覧会で鑑賞したことがあるが、その正確な線画には驚いた。しかし、何故、ピカソは写実に飽き足らなかったのだろうか。ピカソが描く三次元の二次元展開は、実は、我々の大脳の中で行っている作業、正面・側面・後面からの画像とのマッチング、をキャンバスの上に広げて見せてくれているのではないのだろうか。静止画像の写実ではなく、「大脳活動の写実」。生理学者が苦心と、血の滲むような実験の積み重ねで引き出したものを、ピカソはその感性で気づいていたのではないだろうか。こう考えたときに、私にはピカソが偉大に見えた。

 脳神経外科の手術には、中央に術者、右に第一助手、左に第二助手が立つ。機械出しと呼ばれる看護婦は更に第一助手の右に立ち、適切な手術道具を術者の右手に手渡す。この看護婦には手術手順が見えていないと、次の道具を準備することができない。手術にはリズムがある。道具の出てくるのが遅れると、術者のリズムが崩れる。ある日、教授の手術の第一助手をつとめた。機械出しの看護婦は新人で、手術手順を見通す力は無いことが明らかであった。著者が小声で、看護婦に次に準備するべき手術道具を耳打ちしていた。術者である教授は自分の目と手の間に、助手の口が挟まる格好となり、だんだん、自分が術者では無く、ロボットであるかのように感じられたらしい。

 最後に一言、「術者は俺だ」と。

※このコンテンツは、当科顧問橘滋國先生の著書である「体の反射のふしぎ学ー足がもつれないのはなぜ?」(講談社 ブルーバックス 1994年)を元に改変・編集したものです。

このサイトの監修者

亀田総合病院
脊椎脊髄外科部長 久保田 基夫

【専門分野】
脊椎脊髄疾患、末梢神経疾患の外科治療