走馬燈 匂いと記憶1

 その日は都内であるシンポジウムが開催される日であった。当時は農協ホールと呼ばれたが、全国農業協同組合が、JAなる横文字に改名されて、其のホールも現在はJAホールと呼ばれている。少し早い目に到着し、昼食を同じビルの中でとることにした。白いテーブルクロスの上には、ナイフやスプーンが篭に入っておいてある。これで、ここが高級レストランではないことがお分かり頂けるであろう。また、高級レストランの条件は、ドラフトがしっかりしていて、厨房の臭いが客席にはもれてこないことである。JAビルのレストランは職員食堂である。あの匂いの根源が何であるのか未だに解らないが、安レストランに共通の匂いがある。その匂いを嗅いだ途端、突然、20年以上も前の学生時代の記憶がまさに走馬燈のようにかけ巡った。

 貧乏学生であった著者は、最初の二年間は寮生活をした。午後4時30分には配膳されてしまう夕食を5時ごろ食べようものなら、夜中には腹が減って死にそうになる。我々よりすこし年上の看板娘がいた一二三食堂なる学生相手の食堂が、夜中までやっていたが、外食するには金がいる。金の無いときは寮の三食で我慢するしかない。夕食の時間を遅くするしか夜中に襲ってくる空腹という拷問に対する予防の方法はない。寮で飯盗人は死に値する犯罪で、他人の食事を盗む不埒者は居なかった。何時であろうが、自分の飯はちゃんと残っていた。食事はすでに4時30分には配膳ずみである。我慢して夕食を遅く取ろうものなら当然、丼飯はポロポロの干し飯状態になっている。これをどうやって食べるかは、知恵が必要である。冷たい食事を温めるには、今なら、すこし水を掛けて、電子レンジでチンすれば良いのであろうが、当時はそんな気の利いたものはない。まず、丼飯をひっくり返す。丼の下の方の飯は冷たいがポロポロではない、それに熱い湯をかける。そして湯を切る。暖まった上の方を食べているうちに干し飯だった部分も軟らかくなって美味しくいただけた。教養寮の生活は2年で終る。その後はいわゆる下宿生活である。ということは、昼食は外食せねば成らない。日々の生活に現金が必要である。家庭教師の収入に頼っていた貧乏学生が思い付いたのは塾の経営である。これが大いに当たった。貧乏学生がナイトクラブにボトルキープできた。当然、食生活も改善された。学生会館であるクラーク会館に特別食堂なるレストランがあった。ここで昼食をとるのは学生には身に余る贅沢である。なにせ、ナイフ・フォークである。テーブルクロスである。医学部の学生で、三度の食餌(食事ではない)にも事欠くものは著者以外少なかったが、毎日特別食堂で食べられるものも多くはない。塾経営が軌道に乗った頃、たまには仲間と、この特別食堂で食事ができる程度の経済生活になっていた。

 JAホールの食堂で思い出したのは、このクラーク会館でのいつもの仲間との昼食の情景であった。白いテーブルクロスや、ナイフをうまく使って左手のフォークで皿の白飯を食べるのが上手かったN君の動作の一つ一つが、まるで、いま目の前にいるかのように鮮明に思い起こされた。

 試験の答案用紙を前に、憶えたはずの知識を一生懸命呼びだそうとしてもなかなか思い出せないことがあるのに、食堂の匂いで瞬時にして呼び起こされる遠い日の情景。いまわの時に見るという人生の来し方の走馬燈。

※このコンテンツは、当科顧問橘滋國先生の著書である「体の反射のふしぎ学ー足がもつれないのはなぜ?」(講談社 ブルーバックス 1994年)を元に改変・編集したものです。

このサイトの監修者

亀田総合病院
脊椎脊髄外科部長 久保田 基夫

【専門分野】
脊椎脊髄疾患、末梢神経疾患の外科治療