興奮の伝達 尻尾に辛子

 「金は天下のまわり物」一箇所に止まってはいけない。悔しくても止められないが。

 末梢の感覚受容器で受け取った外界の情報は、神経突起を伝導し、中枢神経の次の神経細胞に伝達されて始めて意味を持つ。

 神経伝導には科学的信号を電気的な信号へ変換し、突起内を進むことを前の章で書いたが、この研究にはヤリイカの巨大神経線維が実験材料として好んで用いられる。何時も、生きたヤリイカを手に入れることは大変むずかしい。海が凪いでいるときしか実験ができないのでは困ったものである。ヤリイカを飼育するとすぐに死んでしまう。生理学的な実験を開始するまでに10年の歳月がかかったそうである。ヤリイカは自らの排泄物アンモニアで参ってしまうという。飼育する水槽にアンモニアを摂取するバクテリアを入れたところ、大成功。弱いと思われていたヤリイカが元気に水槽内を泳ぐようになったという。研究者は金儲けに疎いもの、今日活魚ブームでちょっとした料理屋には海水魚が泳ぐ水槽が置いてあるが、そのノウハウは、この研究によるところである。

 さて、末梢からの入力は、どのように中枢神経に伝達されるのだろうか。末梢神経に限らず、神経の興奮は次の神経の興奮を引き起こす。この神経と神経の連絡には、シナプスという構造が働いている。神経線維の最後の部分は、細かく枝分れして、小さなふくらみになり、次の神経の細胞の部分や、樹状突起と呼ばれる神経細胞の突起に貼付いている。ここでは、電気的な情報伝達は行われてはいない。電気的な興奮が神経終末に到達するとそこの細胞膜に変化が起こり、化学物質が放出される。この化学物質は、連絡を受け取る側の神経の細胞膜に取り込まれ、次の神経細胞の膜に変化を起こし、電気的な信号として伝わる。この化学物質によっては、次の神経細胞の細胞膜を興奮する方向に作用するものと、反対に、鎮静的に作用するものがある。

 この化学物質の組成はかなり明らかになっており、東京大学の薬理学教室はこの神経伝達物質の研究の世界的なリーダーである。末梢の痛みを、脊髄の中で次の神経細胞に情報を伝達する物質 - サブスタンスP - についての研究を伊藤教授の講演でうかがった。

 ネズミの脊髄を尻尾を付けて取り出し、潅流液に浸けて生かせておく。さて、尻尾に痛みだけの情報を与える方法がユニークなのに感心した。何かでつねったのでは、痛みも起こるが、圧迫や、触覚の受容器も刺激されてしまい、正確に痛みの受容器だけを興奮させることはできない。尻尾の皮をむいて、カラシエキスに浸けるという。

 痛みだけを与えておいて、脊髄を潅流している潅流液の中に放出される化学物質を集めて、分析したという。
 こうした、血のにじむような科学者の努力のおかげで、神経伝導のメカニズムや、神経が次の神経に情報を伝達する物質、化学伝達物質が明らかとなってきたのである。

 血をにじませたのは、科学者ではなく、ヤリイカやネズミだったのだが。

※このコンテンツは、当科顧問橘滋國先生の著書である「体の反射のふしぎ学ー足がもつれないのはなぜ?」(講談社 ブルーバックス 1994年)を元に改変・編集したものです。

このサイトの監修者

亀田総合病院
脊椎脊髄外科部長 久保田 基夫

【専門分野】
脊椎脊髄疾患、末梢神経疾患の外科治療