皮膚の内側2

 一歩譲ってもらって、生物学的「我」が存在するとして。その基本的構成はDNA情報を伝承し、存在せしめると言う目的のために組織化された原子・分子の集団である。その原子・分子も安定したものでは無く、丁度、企業が組織としてその存在を維持するために、定年制があり、肩叩き、天下りがあり、新卒者募集があるように、常に組織構成成分は再編成されている。昨日の私は今日の私ではない。神経細胞は再生しないと言われているが、昨日の私の神経細胞を構成していた原子・分子が同一である保証や必要は全くない。しかし、他人は10年前の私の仕出かしたことに恨みを持ち続ける。多少髪の毛が少なくなり、眼が老眼になったとしても、基本的に10年前の私が今の私と生物学的に同一で有るという暗黙の了解がそこには存在する。

 大脳生理学者の間では、この同一性に疑問を持つ人がいる。片目で一つの画像を見続けて、これを黒い覆いでふさいでおく、24時間以上たって覆いをはずしてみると、見事に残像が残っていると言う。少なくとも、入力された情報が、中枢神経内にかなりの時間、保持されるような機序を考える必要がある。そのためには、入力によって中枢神経が器質的変化を起こし得ると考えるのが容易である。記憶に関係する化学物質の研究などが、この流れにあると言えよう。

 一方、入力情報に対する情報処理と、出力応答を中枢神経の主な作業行程とすると、この作業行程から得られる演算結果には、変化の少ないものと、そのつど答えの変わり得るものとが存在する。出力応答の均一なものでは、定型的な演算結果、すなわち均一な出力応答が期待できる。この反応形態には生物としての生命維持の基本的合目的性が集約されているように見える。そして、その回路はきわめて安定したものに見える。これを反射と呼ぶことができよう。

 この反応出力、反射に変化が起こったとすると、それは、入力情報によってでは無く、中枢神経の状態によってのみ変化し得るものであり、このことは、中枢での器質的変化を示唆すると言う逆説的側面を持つ。この均一性故に、反射の観察は神経学的検査の主体をなす。

 息をすること、食べること、眠ること、歩くこと、など、我々の全ての行動のどの一つを取ってみても、こうした中枢神経の入力に対する出力応答と切り放して考えられるものは何一つない。神経学の教科書には医学生が記憶すべき最低限の、反射の導出方法とその観察方法、それが変化した時に疑うべき器質的病変の部位が列記してある。

 ところが、医学生には処理すべき医学情報が多すぎる。ここで、医学生の頭のなかに「コンニハチ小父さん」現象が起こる。すなわち、内容の理解は諦め、類型化し、箱詰めにし、理解しないまま、記憶の引出しに放り込んで仕舞う。本当はその一つ一つが、生物としての自分の皮膚の内側に起こっていることであるにも拘らず。

※このコンテンツは、当科顧問橘滋國先生の著書である「体の反射のふしぎ学ー足がもつれないのはなぜ?」(講談社 ブルーバックス 1994年)を元に改変・編集したものです。

このサイトの監修者

亀田総合病院
脊椎脊髄外科部長 久保田 基夫

【専門分野】
脊椎脊髄疾患、末梢神経疾患の外科治療