皮膚の内側1

 かつて、精神科医であり文筆家のなだいなだ氏の講演を聞く機会があった。テーマは、無知と偏見の関係についてであった。多分、松沢病院のこととお伺いしたのだが、病院の前を掃除する「コンニチハ小父さん」のことから話は始まる。「コンニチハ小父さん」は毎朝病院の前をお掃除する。前の道路を人が通る。皆挨拶をして通る。「コンニチハ小父さん」は、どこどこの誰さんであるか、皆の顔を覚えている。しかし、ご多分に漏れず、病院の周囲にも都市化の波が押し寄せる。前の道路を通る人の数が増えるに連れ、「コンニチハ小父さん」は、全員のことを一人一人理解するのが難しくなる。あの人は「何丁目の人」と言うような、区別をして、分類し、理解した気になってしまい、安心する。道を通る人も、最初の内は患者さんのことも、一人一人知っていたのに、流入した人達は、「精神病院の患者さん」と一括りにしてしまう。本当は、一人一人に対する理解度は極端に低下している。

 現代人は、その能力以上にたくさんの人と会わねばならず、自分の作った区別の枠のなかに放り込んで理解した気になってしまう。こうして、精神科疾患の患者さん達を一括りにし、偏見により差別してしまうことは、無知が原因になっている。と、言う趣旨であったと記憶する。

 ヒト科の我々は、アフリカのイブの子孫か否かの議論は別にして、爆発的な増加をし、ヒト科の自分以外のヒトを認識することの必要は、限界を越している。なだいなだ氏の言う「分類のための枠組み」の最たるものは人種差別であろう。人種差別の最たるものは皮膚の色による分類である。

 人種差別の材料としての意味ではなく、生物を構成する組織のうち、皮膚はきわめて重要な意味を持つ。生物学的意味のみならず哲学的意味においても。我と他を区別する基本的空間的構造物として皮膚は存在する。私はパンツを穿いて服を着て眼鏡をかけてここに座っている。このすべては私であるが、生物学的意味での私は、多くの場合、皮膚で境された内側を示している。私の胃袋の中の今飲んだコーヒーや、明日の朝出るであろう大腸の内容物は私であって私ではない。消化管もまた外である。しかし、この概念も、疑問を持てば切りがない。「カラスの死骸はなぜ無い」の著者矢追純一は、こうした概念も教育によって形成されていると、警鐘を鳴らしているが。我々の存在そのものも、波動の干渉--モレア像であるかも知れないと。

※このコンテンツは、当科顧問橘滋國先生の著書である「体の反射のふしぎ学ー足がもつれないのはなぜ?」(講談社 ブルーバックス 1994年)を元に改変・編集したものです。

このサイトの監修者

亀田総合病院
脊椎脊髄外科部長 久保田 基夫

【専門分野】
脊椎脊髄疾患、末梢神経疾患の外科治療