南極×亀田家庭医 森川博久

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post300_0.jpg内科専門研修、亀田家庭医での研修の後、南極観測隊に医師として越冬。帰国後、奄美大島での島医療の経験を経て、現在、アフリカ地域で外務省医務官(以下、医務官)として勤務されているという異色の経歴をもつ森川先生。森川先生にとっての家庭医とは、家庭医のどんなところが活きるのか、仕事の遣り甲斐とは。海外の日本人コミュニティーに身を置く家庭医の姿に迫ります!

ーまず、現在どのようなお仕事をされているのか教えてください。
現在はアフリカの在外公館で、医務官として勤務しています。医務官の業務は、大使館職員の予防を含めた健康管理と在留邦人への健康相談の他、現地の医療情報収集・情報提供など多岐に渡っています。
今は新型コロナウイルス(以下コロナと記載)の影響もあり隔日テレワーク(呼ばれれば休日、夜間でも出勤します)をしており、朝8時半から夕方5時15分まで主に大使館内の医務室で業務を行っています。コロナの状況もあって普段とは違う仕事も多く忙しくしていますが、日本人医師は私だけなので、頼られる分やりがいを感じる毎日を過ごしています。自分の担当する公館は任国以外にもあり、普段なら3ヶ月に1度、別の国への巡回診療が組まれますが、今年(※2020年8月時点)はコロナの影響で残念ながら実施できていません。その分、メールや電話で相談を受けています。

ー医務官のお仕事をされる以前は、南極観測隊に医師として越冬されたようですね。どうして南極に行かれたのですか。
post300_1.jpg私が南極に興味をもったのは、小学生の頃に「南極物語」を見てからです。実際に行動に移し始めたのは北海道大学の医学部生の時。北大には低温科学研究所というのがあって、南極に行ったことのある先生の授業を教養課程の間に受講できたのですが、自分も南極に行けるかもしれないという想像を膨らませていました。南極に行ったことのある外科の先生が稚内にいると聞いて、5年生の時の院外実習の機会に会いに行ってお話を聞いてきました。その頃私は小児科志望だったのに、外科の病院を実習先に選んだのを不思議がられましたが、とにかくその先生に話を聞きたかった。実際に南極に行った先生から具体的なお話を沢山聞かせてもらって、どんどん夢を膨らませたものです。当時その先生に言われたのは、南極に行くには条件が3つあると。
一つ目は、南極に行く隊員たちはどの職種も全員プロだから、自分も医師としての経験を積んでプロになりなさいと。二つ目は過酷な環境に身を置くので体力をつけておくこと。三つ目は、南極で仕事をしたいという情熱を持ち続けること。その言葉を頭の片隅に置きながら、北海道室蘭市での初期研修2年、国立国際医療センター総合診療科での内科小児科研修を4年半、そのあと亀田ファミリークリニック館山で家庭医研修を3年半終えました。妻が奄美大島出身ということもあり、いずれは奄美に行こうという話をしていた時に、妻が私に「やり残したことはないですか?」と聞いてくれて。そこで初めて、実は南極観測隊員になりたかったことを話して、一度だけチャレンジをしてみようということになりました。運良く一回の応募で合格し、夢だった南極に医師として行くことに。医師11年目、43歳の時でした。

小さなコミュニティでこそ能力を発揮できるのが家庭医の武器

ー南極ではどのような生活をしていたのですか。医師はどんなことをするのでしょうか。
越冬隊は、国のミッションとして観測、研究を進めていく観測系の隊員と、基地の機能を維持するための設営系の隊員とに分かれています。医療隊員は後者の一員で、全ての越冬隊員が健康で文化的な生活を維持し、元気に日本に帰る手助けをするという役割を担っています。薬はもちろん、血液検査機器、レントゲンや内視鏡、小さな手術ができる機材が設置されており、簡単な歯科応急処置もします。
post300_2.jpg南極の特徴として、白夜と極夜(太陽が一日中昇らない時期)が各数ヶ月あります。極夜の晴天時は朝までオーロラが楽しめる日もある一方で、太陽が昇らないので、不眠やむしろ一日中眠たいなど、睡眠障害をはじめとしたメンタル不調を起こす人もいます。これは想定の範囲内ではあるのですが、その背景には必ず不調に至る個別の原因が存在します。隊員の背景に配慮しながらそれぞれの原因を追求して、負の連鎖を止めるべく、ストレスコーピングなど、亀田で学んだ診療を発揮することもありました。観測隊は閉鎖空間での小さなコミュニティなので、環境調整がしにくいという難しさがあり、人間関係も含めてメンタル面では対応に工夫が必要なこともありました。
越冬している隊員は概して身体的には健康です。でも、心配事というのは多かれ少なかれ誰しもあって、日本に残した家族を心配する声もありました。ここはまさに「家族志向のケア」ですね。日常の雑談の中で家族が話題に上ると、家族背景を想像しながら少しずつ、自然にそれぞれの隊員のfamily tree(家族の木)を描いていました。そういうことを考える習慣というのは、家庭医として培ってきたもので南極でも役に立ちました。子どもの健康問題など「親としての心配事」にできる範囲のアドバイスをしたり、両親や兄弟の病体験についてお話を聞いたり。日本にいる主治医以上に出しゃばらない配慮をしつつ、少しでも不安が軽減できるよう努めました。私自身の南極での役割の中に、こういった隊員の健康面以外の広い意味で、家族のサポートを含んでいたのではないかと思います。家庭医の視点で隊員のコンテクストを捉えたり、家族志向のケアを実践したり、俯瞰してチームマネジメントを考えてサポートしたり。家庭医の守備範囲の広い医学的・非医学的な知識は確実に役立っていて、こうした経験を経て、家庭医は小さなコミュニティで能力を十分に発揮できる専門性だと改めて思いました。

ーそんな風に日本に留まらないご活躍をされている森川先生は、どうして家庭医になろうと思ったのですか。
医学部生時代、地域で小児科をやりたいと思っていたところ、地域医療とは何かを知りたくて岩見沢にいらっしゃった楢戸先生の元に院外実習に行きました。同診療所にいらした家庭医の武田先生に実習中お世話になりましたが、そこでの出会いが私にとっては大きな衝撃でした。整形外科疾患から、小児疾患、自殺企図のある女性への対応、在宅での看取りもするし、何でもやっているスーパーマンがいると思ったのです。頭の隅では家庭医の存在は知っていましたが、そこで初めて家庭医の懐の深さを目の当たりにしました。患者さんとのやりとりの中で、言葉だけではない、目には見えないやり取りってあるじゃないですか。そういう医療の原点みたいな部分を大切にし、カバーする疾患の幅広さだけではなくて、家庭医のマインドとして「地域・コミュニティーごと診る」という診療形態がすばらしいと思いました。家庭医は小児も診るし、僕はそこで家庭医になろうと決心しました。

置かれた環境で自分を活かすために「自ら学ぶ方法を学ぶ」

ー森川先生にとっての家庭医とは?そして亀田家庭医でどんなことを学んだのですか。
家庭医は守備範囲の広さと、変幻自在なのが良いところと思います。場所も活動内容も自由度が高くて、どこでも求められるし、家庭医のスキルがあれば求められているもの以上のパフォーマンスを発揮できる分野もあると思います。どの環境にいても、自分が貢献できる形に成長していけば良いのだと思います。家庭医専門医を取得した後に、自分を特徴づけるサブスペシャリティをどうするか悩むこともあると思いますが、家庭医をコアとすれば何でも親和性高く取り入れられると思います。私で言えば、国際保健や産業医、渡航医など、これまで学んだことや別の資格と親和性が高く学びやすかったと思っています。
亀田家庭医のすごいところは、「自分で学ぶ方法を学ぶ」ところ。日々の臨床の疑問の解決の仕方は勿論ですが、課題に気づいて自ら学び、その学びを自分で深める習慣です。自分が成し遂げたいことに対してどういう能力が必要なのか、日々一緒に考え模索する仲間がいましたし、アンテナを張っていれば、関わるさまざまなネットワークからそのヒントも得られました。自分で成長する方法を試しながら身につけられたのだと思います。
post300_3.jpgその具体的なエピソードをCommunity Medicineを例にお話しします。これは地域の特徴を知り、地域で大事にされている価値観を知り、地域のニーズを掘り起こす、という研修でした。Community Medicineって何?というところから始まりましたが、岡田院長からは「地域の宝物を探してきて」、というざっくりとした課題が与えられました。講義として知識を与えられるわけではなく、まずは自分で学び、南房総の地域に出て人との会話を通してニーズを感じつつ、常に課題の意図するところは何だろうと悩む2週間でした。当時の私には表面的なニーズを知るまでで、結局Community Medicineが腑に落ちる形にはなりませんでしたが、構成をとらえる基礎はできたと思います。そしてその後も、意識的にこのアンテナを張ったまま過ごしていました。
場所が変わって南極での観測隊員としての課題に取り組む中で、その解決策を見つけるために「観測隊というこのコミュニティの特徴って何だろう?」と亀田家庭医の時にCommunity Medicineで学んだ手法で考えました。こういった日々の模索と学びのふとしたなかで、コミュニティ心理学という学問分野があることを知り、文献を取り寄せ中身をかじってみると、頭の中のコミュニティの概念がさらに整理されて、物事が捉えやすくなり、活動しやすくなりました。
自分の経験、疑問、模索の中でのいろんな学びとリンクさせて、地域で自分を活かす。その後も学びや考えを深め反省する、を繰り返して、課題解決能力を向上させる喜びがそこにあります。それが南極での観測隊員としても、そして現在の医務官という仕事の中でもものすごく活きていますし、今も学びは続いています。
私が南極で学びを深めたように、場所を問わず、しかもそれは「医療現場」に限らず、自分の置かれた環境で活きるために新しいことを学ぶ、新しい環境に順応するという姿勢の土台は亀田で醸成されたものですね。

post300_4.jpgー森川先生にとっての亀田家庭医とは
その時は力がなくても、何でも、どういうところでも、求められている力を発揮できるように成長する、という方法を学べた場所です。すべての仕事に繋がっている自分の原点になっています。亀田家庭医は有名なプログラムですし、先輩方や後輩たちに恥ずかしくないような仕事をせねばといつも背筋が伸びる思いです。一方で、家庭医はこうあるべきとか、理想の家庭医像に近づかなければとか、そう考え始めるとプレッシャーになってしまいますので、自分は自分のあり方、家庭医としての道を歩もうと思っています。今でも毎年新しい後輩たちが入ってきては卒業していく中で多様性が広がっていき、その活躍を耳にする度に自分も頑張ろうと励みになるし、うかうかできないと刺激になっています。

先人の跡を追うのではなく、自分独自の足跡を

ー未来の亀田家庭医にメッセージをお願いします。
偉大な亀田家庭医の先輩がたくさんいて、ロールモデルがたくさんいるからこそ気後れしてしまいそうになるけれど、先輩の跡を追う必要はありません。足跡がついていない領域、可能性は無限大です。足跡がないところを歩いて、それは決して第一人者になろうという意味ではなくて、自分独自の足跡をつけていけば良いと思っています。まだまだ家庭医専門医の人数は少ないですから、未開拓の道を進んでいけるのではないでしょうか。

このサイトの監修者

亀田ファミリークリニック館山
院長 岡田 唯男

【専門分野】
家庭医療学、公衆衛生学、指導医養成、マタニティケア、慢性疾患、健康増進、プライマリケア・スポーツ医学