ハットピンを衿に1

 パリの蚤の市ではピンからキリまで、高価なものから本当につまらない紛い物まで売っていて一日中眺めて歩いても楽しいものである。残念ながら、著者にはアンティークと言われてもその真贋を見分ける力もないし、あったとしても高価なものを購う財力がない。

 著者が唯一蚤の市で買うことが出来たのは、ハットピンであった。女性が帽子をかぶるときに髪の毛に止めるために使うピンである。どんな女性の髪を飾っていたものか、きっとブロンドの美人であったに違いない。空想は自由である。一方の端は男心をくすぐるような色とりどりのガラス玉が附いていて、もう一方の端は男心にグサリと刺さる、尖ったピンである。日本髪の簪が同じ構造である。簪には帽子を止めると言う隠れ蓑がないだけにより直接的であるが。5本のピンを買ったが、5人の気を引きたい女性がいたわけではない。5本の簪ではなく、がらくたのハットピンを5本買うぐらいの財力は持ち合わせていた。

 人が物を欲しがるときにその対象が実現不可能なものは心に希望を持たせるが、心の葛藤の原因にはなりにくい。空に架かる虹は物理的に絶対に到達できないために、希望の象徴となる。しかし手に入りそうでいて、少し無理があるときに、心はもがき苦しみ絶望感を生む。心理的葛藤が身体的表現として現れたとき、それはヒステリー症状となる。著者は精神科医でも心理学者でもないので、その病理学的側面については省略させていただく。

 しかし臨床神経学を学ぶとき、ヒステリー症状の存在は忘れてはならない。「アルプスの少女ハイジ」に出てくるクララや、「小公女」に出てくる、インドから父の財産を持ってきてくれた正体不明の小父さんは車椅子の生活をしている。共通していることは、少女の温かい愛でいずれも歩けるようになることである。愛情物語りの、副主人公として登場するこの車椅子の生活者達。実は、彼らは医学的にはヒステリー性対麻痺患者である。

 シャルコーやバビンスキーなどの大家がフランスから輩出し、今日の臨床神経学の礎を築いたことと、このヒステリー性の神経症状を持つ患者の存在は無縁ではない。CTやMRIといった有力な画像診断方法のなかった時代に、器質的疾患を持つものとそうでないものを診察の中で如何に見分けるかが、臨床神経学の大命題であった。

 今では医学生であれば必ず知っていなければならないバビンスキー反射も、実はこうした背景の中から生まれた。足底を刺激すると、大脳や脊髄に器質的病変のある患者では足の親指が空を向くのに対して、ヒステリー患者や正常者では親指は足底側に曲り込む。指が空を向いたときバビンスキー反射陽性と言う。

 これに似た足趾の反射には、足の甲の外側を刺激したり、ふくらはぎを指で強くつまんだり、第4趾をつまんで引っ張ったり、向こう脛を握り拳でこすったり、アキレス腱を握ったり、第5趾を外側に強く引っ張って放したりと言った刺激する部位と方法によってチャドック反射、ゴードン反射、ゴンダ反射、オッペンハイム反射、シェーファー反射、ストランスキー反射と言った、それぞれの反射を見出した先達の名前を冠したものがある。

 権威主義者達は、自分に権力のない場合、権威ある先達を崇め奉り、その傘下に自分を列席させ、虎の威を借る。共通言語として新たなものに名称が必要であることは否定しないが、医学用語には特にこの傾向が強く、人名を冠したものが多い。

※このコンテンツは、当科顧問橘滋國先生の著書である「体の反射のふしぎ学ー足がもつれないのはなぜ?」(講談社 ブルーバックス 1994年)を元に改変・編集したものです。

このサイトの監修者

亀田総合病院
脊椎脊髄外科部長 久保田 基夫

【専門分野】
脊椎脊髄疾患、末梢神経疾患の外科治療