第2回:振り返ればブラック

1980年から筑波大学放射線科レジデントとしての研修生活が始まった。
同期は4人、山口大学出身で卒後2年目の小林久人先生(前大津赤十字病院放射線科部長)、京都府立医大出身の黄田保光先生、山口大学卒後1年目の倉本憲明先生(元災害医療センター放射線科部長)、そして私である。
研修の内容は今とは大分違っていた。朝8時からカンファランス、9時から検査に入りCTの注射当番、尿路造影、消化管のバリウム検査、リンパ管造影など夕方まで検査が続く。検査の合間に読影の時間はない。午後6時頃、皆で近くの店で夕食をすませて読影開始、夜10時頃に帰宅。これが毎日のスケジュールだった。
前述の小林先生が大津日赤病院で同じスタイルを採用したところ、耐えられなくなった京大の研修医が教授に訴えて、研修スタイルが変更されたと聞いている。当時は自分たちの仕事のやり方がブラックだという自覚は全く無かった。夜遅くまで働くのは当たり前と思っていたし、毎日写真を見て読影するのが楽しかったのである。

当時の筑波大放射線科は単純写真、消化管や尿路造影そしてCTの読影は行っていたが血管造影は泌尿器科以外の症例は各科が行なっていた。心臓は循環器内科、腹部血管造影は消化器外科、下肢は循環器外科、頭部は脳外科という具合で放射線科のレジデントは血管造影のトレーニングができないという奇妙な状況だった。そこで助教授の平松先生が都立駒込病院部長(前弘前大教授)の竹川先生に話をして毎週木曜日に血管造影に入らせてもらう事になり交代で駒込病院に行くことになった。常磐線の荒川沖まで自家用車で行き、出入りのフイルム業者の営業所の駐車場に車を置かせてもらい、朝6時半頃の常磐線に乗って山手線の田端まで行くのである。
血管造影も今とは少し違っていた。当時のカテーテルは既製品は少なく、自分たちで先端をサンドペーパーで丸く形成、アルコールランプの熱で曲げて形状を付け、手元は漏斗状に膨らませてアダプターを取り付ける。そうして作成したものを消毒液の中にしばらく入れておくのである。

血管造影研修の後、月に一回は信濃町の慶應大学放射線科で行われていた東京レントゲンカンファランスに参加してからつくばに帰るのだが、このときも、家に着くのは午後10時を過ぎていた。

亀田総合病院放射線科 顧問 菊池陽一

このサイトの監修者

亀田総合病院 放射線科部長・画像診断センター長
亀田京橋クリニック診療部部長(放射線科担当)兼務 町田 洋一

【専門分野】
乳腺濃度(breast density)、乳腺の画像ガイド下生検